浮月楼の洋時計 スペイン国王フェリペ6世の静岡訪問 [国内]
楼閣(ろうかく)は高い建物に使われていた言葉です。
砂上の楼閣。。。
高楼(こうろう)という言葉もありますね。
春高楼の花の宴
巡る盃影さして
栄枯は移る世の姿
楼と閣。
どちらも大きい建物、高い建物という意味があります。
使われ方は若干違っています。
楼の場合、摩天楼(まてんろう)、蜃気楼(しんきろう)があります。
摩天楼は直訳調のもので、英語の「skyscraper」が元です。
後は料理屋などですね。
閣の場合、内閣、天守閣、通天閣。。。
四方を観望する見晴しの良い建物とこれまた微妙な違いがあります。
通天閣は固有名詞ですが、摩天楼はあるが通天楼だとどうか?
やっぱり通天閣ですかね。
スペイン国王来日
さて、スペイン国王来日の話題です。
国王来日となれば国賓。
要人であれば外務省だけのことですが、国賓となると宮内庁との連携が必要です。
スペイン国王夫妻日本滞在は2017年4月4日(火)から7日(金)までの4日間。
フェリペ・フィリップ
スペイン国王と言えばフェリペ2世と習ったものですが、現在はフェリペ6世です。
全盛期の国王ですね。
フェリペはフィリップだったりヨーロッパは国によって呼び方が変わります。
現在のフィリピン共和国の元もフィリップ、フェリペからですね。
フェリペ2世は関ヶ原の戦い前に亡くなっています。
石川五ェ門も真っ青の世界分割。
斬鉄剣でも地球は無理。
フィリピンもそうですが、中南米もほぼスペインのもの。
信長、秀吉、家康と国内統一に向かっていた最中で当時の日本は警戒したことでしょう。
関ヶ原の戦いが1600年で慶長5年。
3年後の1603年(慶長8年)に征夷大将軍となった家康。
が、 1605年(慶長10年)征夷大将軍辞職。。。
短い?
といっても、その時既に64歳です。
メキシコに壁を作ると言う米第45代トランプ大統領が1946年生まれで70歳と高齢の大統領です。
1616年(元和2年)死去。
2016年は400という切りの良い数字で、四百年記念が各所で開催されました。
300もありましたね、伊藤若冲とか与謝蕪村の。
1605年征夷大将軍辞職から1616年死去が隠居の時期。
江戸時代は幕藩体制と呼ばれ明治ほどの中央集権ではありませんでした。
もう一つの言葉、駿府の大御所。
引退してからの家康を指すものです。
大御所政治は、1607年(慶長12年)家康が将軍を辞し駿府城に移りながらも実権を掌握していたことです。
ここから1616年(元和2年)も家康の政治の期間でした。
漂着
その間の1609年(慶長14年)7月、フィリピンを三隻の船が出帆。
サン・フランシスコ号、サンタ・アナ号、サン・アントニオ号。
スペイン領メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)に向かう予定でした。
が、途中で暴風雨に遭います。
同年9月ドン・ロドリゴ総督ら373名を乗せた帆船サン・フランシスコ号が千葉県の夷隅郡(いすみぐん)御宿(おんじゅく)沖で座礁。
ドン・ロドリゴ、彼の記録をまとめたものが『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として公刊されています。
10月1日沈没。
メキシコのアカプルコに向かうのに日本へ漂着。。。
この遭難者たちを救出、介抱。
夷隅郡御宿町(おんじゅくまち)には日西墨三国交通発祥記念之碑(メキシコ記念塔)が建っています。
月の砂漠を〜♪
夷隅郡(いすみぐん)には、2つの町があります。
御宿町と大多喜町(おおたきまち)。
昔、大多喜城を藩庁とする大多喜藩がありました。
漂着後、近隣住民の保護を受けていた時、大多喜城主本多忠朝がロドリゴに会いに来ました。
そして、大多喜城に招いて歓待。
ただ、藩主であり外国の要人となれば幕府にも対応を聞いている筈です。
本多忠朝は駿府にいた大御所家康の沙汰を待っていました。
ドン・ロドリゴは大多喜城の次は江戸城、将軍徳川秀忠に謁見。
更に、ドン・ロドリゴが駿河行きの許可をもらい、駿河の大御所徳川家康に謁見。
江戸城から駿府城、東京から静岡に。
そもそも幕藩体制のトップは将軍でロドリゴに取っては謁見できれば終了では?
それを更に駿河の国まで行くのは?
貿易商人、探検家、人類学者
アビラ・ヒロン(Bernardino de Avila Girón)という南蛮貿易時代の長崎在住のスペイン人貿易商人。
彼の16世紀末から17世紀初頭にかけての約20年間の見聞録が『日本王国記』。
これにスペイン人イエズス会士ペドロ・モレホン(Pedro Morejón)が注釈を書き加えています。
この『日本王国記』に1609年のロドリゴ・デ・ビベロの日本漂着が載っています。
またルパンとゴエモンじゃなくて、石川五右衛門の名前も出ていて、京都の三条河原生きたまま油で煮られたという注記も。
家康と同時代の人であり、彼ら貿易商人を通して日本国内の状況は海外に伝えられていたのでしょう。
そして政治体制も。
だから、江戸城の後は駿府城に詣でるということは実質を理解していたら当然だったのでしょう。
大御所政治、院政
表向きは幕府の将軍秀忠がトップではあるものの、やはり奥の院である家康に会っておくべきと考えたのでしょうか。
二重というのは昔からのことで大御所政治以外にも院政とかもそうですね。
今現在の政治は分かりませんが、これが1609年(慶長14年)のことでした。
スペイン国王がなぜ静岡?
ということで、スペイン国王がなぜ静岡に?
長くて通り抜けるのに時間が掛かる静岡。
だったら、分割すれば無問題!
遠江と駿河、伊豆の3分割!
朝三暮四(笑)
静岡市も3つの区があり、駿河区(するがく)、葵区(あおいく)、清水区。
清水区は旧清水市。
葵区は、葵ですね。
説明不要です。
駿河区には、久能山東照宮があります。
東照宮の洋時計
東照宮は日光が有名ですが、その他にも、東京都港区の芝東照宮。
芝東照宮の元神職であった徳川康久氏が靖国神社第11代宮司となっています。
最後の将軍・徳川慶喜の九男の子孫です。
久能山といえば久能山南側斜面の石垣いちご!
いちご狩りですね。
久能山東照宮までの交通アクセスは日本平ロープウェイか徒歩か。
スペイン国王フェリペ6世の訪問は難しいでしょう。
久能山東照宮のサイトで2017年2月18日に、「家康公の時計」ページ公開のお知らせがありました。
最近ですね。
この時計、スペイン国王フェリペ3世からのお礼として1611年(慶長16年)駿府の家康公に贈られました。
その時のお土産が金銅製の洋時計です。
久能山東照宮の落合偉洲(ひでくに)宮司が『家康公の時計 四百年を越えた奇跡』を執筆しています。
JR静岡駅北口より徒歩3分の静岡市葵区にある浮月楼(ふげつろう)。
2017年3月27日、「天皇・皇后両陛下 静岡市訪問によるご会食・レストラン営業 お休みのお知らせ」
たまたま今回は久能山東照宮の「家康公の時計」が交通の便の良い静岡市の中心地にありました。
ということで、葵区の静岡浅間神社、静岡県地震防災センター、浮月楼と駅近でまとまっています。
そういえば、德川宗家第18代当主 德川恒孝氏は静岡商工会議所の最高顧問。
ドン・ロドリゴ、1609年、東京江戸城から静岡駿府城へ移動。
フェリペ6世も2017年、同様の道を。
奥座敷の駿府で最後の将軍の屋敷跡、浮月楼で大御所とスペイン国王との会見?
德川恒孝氏とスペイン国王フェリペ6世の静岡会見?
徳川、フェリペ。
これで400年の物語が閉じることになるのでは?
もし4月7日にそうなったら誰かがシナリオを書いたんでしょうね。
ストーリーとしては、こんなところでしょうか。
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砂上の楼閣。。。
高楼(こうろう)という言葉もありますね。
春高楼の花の宴
巡る盃影さして
栄枯は移る世の姿
楼と閣。
どちらも大きい建物、高い建物という意味があります。
使われ方は若干違っています。
楼の場合、摩天楼(まてんろう)、蜃気楼(しんきろう)があります。
摩天楼は直訳調のもので、英語の「skyscraper」が元です。
後は料理屋などですね。
閣の場合、内閣、天守閣、通天閣。。。
四方を観望する見晴しの良い建物とこれまた微妙な違いがあります。
通天閣は固有名詞ですが、摩天楼はあるが通天楼だとどうか?
やっぱり通天閣ですかね。
スペイン国王来日
さて、スペイン国王来日の話題です。
国王来日となれば国賓。
要人であれば外務省だけのことですが、国賓となると宮内庁との連携が必要です。
スペイン国王夫妻日本滞在は2017年4月4日(火)から7日(金)までの4日間。
スペイン国王夫妻の日程
2017年4月4日(火)
東京・羽田空港に到着
2017年4月5日(水)
皇居で歓迎式典
宮殿「竹の間」で会見
東京都江東区の日本科学未来館訪問
宮中晩餐(ばんさん)会
2017年4月6日(木)
安倍総理主催の晩餐会 サッカー選手の乾貴士氏も参加
2017年4月7日(金)
天皇、皇后両陛下がフェリペ6世国王夫妻を静岡市に案内
東京駅から新幹線臨時専用列車で静岡駅へ
静岡県地震防災センターで津波のシミュレーター視察
静岡浅間神社で地元小学生による稚児舞を鑑賞
徳川慶喜公屋敷跡の浮月桜で久能山東照宮所蔵の「家康公の時計」鑑賞
富士山静岡空港よりスペイン帰国
フェリペ・フィリップ
スペイン国王と言えばフェリペ2世と習ったものですが、現在はフェリペ6世です。
全盛期の国王ですね。
フェリペはフィリップだったりヨーロッパは国によって呼び方が変わります。
現在のフィリピン共和国の元もフィリップ、フェリペからですね。
フェリペ2世は関ヶ原の戦い前に亡くなっています。
石川五ェ門も真っ青の世界分割。
斬鉄剣でも地球は無理。
フィリピンもそうですが、中南米もほぼスペインのもの。
信長、秀吉、家康と国内統一に向かっていた最中で当時の日本は警戒したことでしょう。
関ヶ原の戦いが1600年で慶長5年。
3年後の1603年(慶長8年)に征夷大将軍となった家康。
が、 1605年(慶長10年)征夷大将軍辞職。。。
短い?
といっても、その時既に64歳です。
メキシコに壁を作ると言う米第45代トランプ大統領が1946年生まれで70歳と高齢の大統領です。
1616年(元和2年)死去。
2016年は400という切りの良い数字で、四百年記念が各所で開催されました。
300もありましたね、伊藤若冲とか与謝蕪村の。
1605年征夷大将軍辞職から1616年死去が隠居の時期。
江戸時代は幕藩体制と呼ばれ明治ほどの中央集権ではありませんでした。
もう一つの言葉、駿府の大御所。
引退してからの家康を指すものです。
大御所政治は、1607年(慶長12年)家康が将軍を辞し駿府城に移りながらも実権を掌握していたことです。
ここから1616年(元和2年)も家康の政治の期間でした。
漂着
その間の1609年(慶長14年)7月、フィリピンを三隻の船が出帆。
サン・フランシスコ号、サンタ・アナ号、サン・アントニオ号。
スペイン領メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)に向かう予定でした。
が、途中で暴風雨に遭います。
同年9月ドン・ロドリゴ総督ら373名を乗せた帆船サン・フランシスコ号が千葉県の夷隅郡(いすみぐん)御宿(おんじゅく)沖で座礁。
ドン・ロドリゴ、彼の記録をまとめたものが『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として公刊されています。
10月1日沈没。
メキシコのアカプルコに向かうのに日本へ漂着。。。
この遭難者たちを救出、介抱。
夷隅郡御宿町(おんじゅくまち)には日西墨三国交通発祥記念之碑(メキシコ記念塔)が建っています。
月の砂漠を〜♪
夷隅郡(いすみぐん)には、2つの町があります。
御宿町と大多喜町(おおたきまち)。
昔、大多喜城を藩庁とする大多喜藩がありました。
漂着後、近隣住民の保護を受けていた時、大多喜城主本多忠朝がロドリゴに会いに来ました。
そして、大多喜城に招いて歓待。
ただ、藩主であり外国の要人となれば幕府にも対応を聞いている筈です。
本多忠朝は駿府にいた大御所家康の沙汰を待っていました。
ドン・ロドリゴは大多喜城の次は江戸城、将軍徳川秀忠に謁見。
更に、ドン・ロドリゴが駿河行きの許可をもらい、駿河の大御所徳川家康に謁見。
江戸城から駿府城、東京から静岡に。
そもそも幕藩体制のトップは将軍でロドリゴに取っては謁見できれば終了では?
それを更に駿河の国まで行くのは?
貿易商人、探検家、人類学者
アビラ・ヒロン(Bernardino de Avila Girón)という南蛮貿易時代の長崎在住のスペイン人貿易商人。
彼の16世紀末から17世紀初頭にかけての約20年間の見聞録が『日本王国記』。
これにスペイン人イエズス会士ペドロ・モレホン(Pedro Morejón)が注釈を書き加えています。
この『日本王国記』に1609年のロドリゴ・デ・ビベロの日本漂着が載っています。
またルパンとゴエモンじゃなくて、石川五右衛門の名前も出ていて、京都の三条河原生きたまま油で煮られたという注記も。
家康と同時代の人であり、彼ら貿易商人を通して日本国内の状況は海外に伝えられていたのでしょう。
そして政治体制も。
だから、江戸城の後は駿府城に詣でるということは実質を理解していたら当然だったのでしょう。
大御所政治、院政
表向きは幕府の将軍秀忠がトップではあるものの、やはり奥の院である家康に会っておくべきと考えたのでしょうか。
二重というのは昔からのことで大御所政治以外にも院政とかもそうですね。
今現在の政治は分かりませんが、これが1609年(慶長14年)のことでした。
スペイン国王がなぜ静岡?
ということで、スペイン国王がなぜ静岡に?
長くて通り抜けるのに時間が掛かる静岡。
だったら、分割すれば無問題!
遠江と駿河、伊豆の3分割!
朝三暮四(笑)
静岡市も3つの区があり、駿河区(するがく)、葵区(あおいく)、清水区。
清水区は旧清水市。
葵区は、葵ですね。
説明不要です。
駿河区には、久能山東照宮があります。
東照宮の洋時計
東照宮は日光が有名ですが、その他にも、東京都港区の芝東照宮。
芝東照宮の元神職であった徳川康久氏が靖国神社第11代宮司となっています。
最後の将軍・徳川慶喜の九男の子孫です。
久能山といえば久能山南側斜面の石垣いちご!
いちご狩りですね。
久能山東照宮までの交通アクセスは日本平ロープウェイか徒歩か。
スペイン国王フェリペ6世の訪問は難しいでしょう。
久能山東照宮のサイトで2017年2月18日に、「家康公の時計」ページ公開のお知らせがありました。
最近ですね。
この時計、スペイン国王フェリペ3世からのお礼として1611年(慶長16年)駿府の家康公に贈られました。
1609年(慶長14年)ロドリゴ、千葉県御宿に漂着、家康に謁見。
1610年(慶長15年)6月浦賀から出帆、10月メキシコへ帰着。
1611年(慶長16年)慶長16年5月、司令官セバスティアン・ビスカイノが日本に派遣され家康公および秀忠公に謁見。
その時のお土産が金銅製の洋時計です。
久能山東照宮の落合偉洲(ひでくに)宮司が『家康公の時計 四百年を越えた奇跡』を執筆しています。
JR静岡駅北口より徒歩3分の静岡市葵区にある浮月楼(ふげつろう)。
2017年3月27日、「天皇・皇后両陛下 静岡市訪問によるご会食・レストラン営業 お休みのお知らせ」
2017年4月7日(金)、天皇・皇后両陛下がスペイン国王夫妻とともに 静岡市を訪問され、当浮月楼にて「家康公の洋時計」を鑑賞される ご予定でございます。
そのため、4月7日は昼・夜共ご会食を承ることができません。
何卒ご理解のほど、よろしくお願い致します。
たまたま今回は久能山東照宮の「家康公の時計」が交通の便の良い静岡市の中心地にありました。
ということで、葵区の静岡浅間神社、静岡県地震防災センター、浮月楼と駅近でまとまっています。
そういえば、德川宗家第18代当主 德川恒孝氏は静岡商工会議所の最高顧問。
ドン・ロドリゴ、1609年、東京江戸城から静岡駿府城へ移動。
フェリペ6世も2017年、同様の道を。
奥座敷の駿府で最後の将軍の屋敷跡、浮月楼で大御所とスペイン国王との会見?
德川恒孝氏とスペイン国王フェリペ6世の静岡会見?
徳川、フェリペ。
これで400年の物語が閉じることになるのでは?
もし4月7日にそうなったら誰かがシナリオを書いたんでしょうね。
ストーリーとしては、こんなところでしょうか。
関連記事
ベトナム独立運動の志士ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)と浅羽佐喜太郎、犬養毅と頭山満
ミャンマー ベトナム 残留日本兵と残置諜者
フィリピン 茶色い弟とは? アメリカの兄弟国家、絶縁宣言?